「関係する女 所有する男」

  斎藤環  講談社現代新書  平成22330

男と女にどれほどの差異があるのか。ねずみなんかを見て、それがオスであるのか、メスであるのか多分分からないだろう。オスメス並べてみれば大きさなどで多少違いはあるのだろうが、個体によっては分かりにくいこともあろう。人間などでも、客観的に?、その差異は10199くらいのものだろう(どちらが101かということは問題にしない、差は小さいということが言いたいだけなのである)。しかし、この差は実際にはプラス100対マイナス100くらいに大きな意味を持つことがある。この差し引き200の落差が種族維持の原動力となる。普通の動物では、その差が大きな意味を持つのは発情期のときだけである。

発情期がなくなり(常に発情期であるというべきか)、体を衣服で覆っている人類は、どうなるのか。そもそも、衣服は保温と安全のために身につけるようになったと思われる。しかし、それでは性的なアピール力というものが失われてしまう。では、どうするか。文化的な方法で、その差し引き200という落差を現出しなければならないのある。ということで、男の文化、女の文化、また社会的な性文化ということがきわめて重要になる。女の文化とは極端に言えば、男を惑わすための手練手管なんだろう。それは、真の目的をさりげなく隠蔽し、できるだけ品よく作られるが、その目的を見失っては何にもならないのである。男の文化だって、似たようなもので、さまざまにその力を誇示することに関わっているのではあるまいか。

以上は、この本の内容とは関係ない。著者は精神分析を専門とする精神科医である。一読してこの本はさっぱり分からない。性の関係を男は「(女を)所有すること」 と捉えるのに対し、女は「(男と)関係すること」と考えるという、そういう風に考えると男女関係が説明しやすいということなんだろうか。そう言われれば「嫁をもらう」「嫁にやる」という。たしかに、最近まで世界中で男が女を「養う」という風潮が盛んだったので何となく分からないでもないが、本当はどうなんだろう。もっと穿って考えれば、女の腹にいる胎児に、男は「オレの子だ」という主張をするだろう。これは紛れもなく所有権の主張である。(ふつう、自分の支配領域にあるときは所有権の主張はしない。人の占有下に有って、始めて所有権という観念が出てくるのである)。

女にしてみれば、胎児は自分の体の一部であるから、当然所有権の主張などする必要はない。「タネはあの人からもらった」と考えれば十分なのである。女が関係で捉えるというのはそんなことなのだろうか。