「古事記を読みなおす」

  三浦佑之  ちくま新書  平成221222

 古事記と日本書紀をあわせて記紀と称している。そして両方とも、大和朝廷が自分達の正統性の拠り所として編纂したものだといわれている。著者はそれは違うという。日本書紀は確かにそういった意図で編纂されているが、古事記はその目的にそぐわないお話がたくさん出てくるのだという。例えば、出雲神話は日本書紀にはほとんど出てこないが、古事記では、むしろ出雲神話のために精彩があるほどなのである。ヤマタノオロチ、因幡の白兎、などなど。

 その、成立は天武天皇の命によって稗田阿礼が暗唱したものを太安万侶が記述したと序文にあることから、これをそのまま信じて朝廷が編纂したといわれるのであろうが、その序文そのものが怪しいのだという。むしろ、そういう目的もなく、昔話として稗田阿礼が記憶していたものを、書き取らせただけというのが真相ではないだろうか。要は、古事記はそういった政治的意図があまり盛り込まれていない、素朴なお話なのである。その多くは出雲の建国と高天原への国譲りに集約されているといえようが、むしろ出雲の物語に大和の話をつないだだけというのが素直な見方ではないか。滅び去った出雲への鎮魂なのかもしれない。

まあ、どうでもいいようなお話なのかもしれない。しかし古事記は古代の日本を語る唯一の物語なのである。

余談ながら、著者は邪馬台は「やまと」と読むべきだという。中国では昔から、周辺の異民族に「匈奴」「身毒」というように蔑視的な文字を当てはめてきた癖があるが、その音の元はやはり現地の発音なのだろう。とすれば「やまと」に邪馬台という差別的な文字を当てるのも十分に考えられることである。そこまで考えるなら、卑弥呼=アマテラスという線は出てこないだろうか。卑弥呼は本当は「日御子」ではなかったか。それならアマテラスとも意味の上でつながってくる。高天原は何処だったのでしょう。