「儒教とは何か」

  加地伸行  中公新書  平成24520

世界の四大宗教はキリスト教、イスラム教、仏教、儒教だと学校では教えられてきた。キリストやイスラムは確かにそうであろう。まあ、仏教もそうだということにしても、儒教のどこが宗教なのか、という疑問が常にあった。儒教と言えば忠孝を説く封建制を支えた道徳のような印象しかなかったのである。でも、この本によればどうもそうではないようなのである。

そもそも、儒教を創始したのは孔子だと言われているが、それ以前から漢民族には「孝」を柱とする祖先崇拝の“宗教”があったというのである。それは、ある意味で生物の本質を表したものであるのかもしれない。なぜなら、生き物とは意味もなくその生命を(正確にいえば遺伝子の一部を)後ろの世代に伝えることだけが存在目的だと言えるからである。だから、自分の今あるのはご先祖様の御陰だとしてこれを崇拝し、その命の延長線として子孫を愛育することは何となく納得できそうなことではある。

ここで、宗教の定義が問題となる。キリスト教のように絶対者の存在を信じ、それに帰依することと定めれば、仏教などは宗教とは云えなくなってしまう。ここで著者は「宗教とは死ならびに死後の説明者」だと定める。そしてあとはこれにまつわる倫理道徳だけだと。ここまで拡大すれば「死んだらなんにも無くなるんだよ」という無神論も宗教に入ってきそうだが、まあいいとするか。本来のお釈迦様の教えもそんなものだったような気がするからである。

そして、漢民族に古くから伝わってきた“風習”、それは祖先を崇拝し、祖先の霊魂を招き下ろして感謝する儀礼が存在していたというのである。こうした慣行のなかから、孔子はそのエッセンスとなる部分を構築していったのであり、孔子の唱えたのは、倫理道徳に関するものが主であったのであるが、その基礎的な部分は、民族的な祖先崇拝の「宗教」に根ざしているというのである。そしてその祖先崇拝の精神的な土壌はいわゆる儒教文化圏(中国、朝鮮半島、日本、ベトナムなど)共通のDNAだというのである。この範囲であれば、まさに稲作文化圏と重なりそうであるが、著者はそれについては触れていない。でも、稲作というのは田圃を開墾した祖先への深い感謝の念を伴うのは当然だから、そういう意味の追求があっても良かったような気がする。それはともかくとして、こういう祖霊信仰を基礎に持つのだから儒教は宗教の仲間入りが出来るのだという。ただ儒教では、こうした祖霊崇拝の祭祀はレベルの低い精神活動として、民間の執行者にまかせ、レベルの高い精神活動の部分が儒学者の役割になっていくのである。

そして儒学として独立の地位をもった精神活動は朱子によって哲学的な体系を獲得し、最終的には体制を支える倫理規範となってしまう。特に国家的な場合には「孝」という倫理は主君に服従する「忠」に道を譲るようなことにもなるのである。

この祖先崇拝のエッセンスである「孝」というのは、稲作民族の心の奥底に染み付いた体液のようなものであるから、ちっとやそっとのことで変わるものではないというのが著者の主張である。だから、中国に入った仏教は、この祖先崇拝の壁に阻まれ、ついに祖先崇拝を自分の教義として取り入れた結果、中国に受け入れられることができたというのである。そういえば日本に渡ったあとの仏教も、祖先崇拝と結びついてこそ勢力を伸ばすことが出来たのではないか。葬式仏教と揶揄されてもある意味ではそれは本質的に大事なことかもしれないのである。